こんにちは、ファイナンシャル・プランナーの吉田です。
今回は「教育」のお話を。
FPにとって教育といえば「教育資金」ですね。時代による価値観の変化はあれど、「老後資金」「住宅資金」「教育資金」は人生の三大資金として、いまも家計に鎮座し続けています。
このうち教育資金は、教育に対する価値観と、経済的な面の相互作用によって、家計にとっては大変悩ましいものになります。
夫婦だけの事ではなく、子どもという人格もそこにいるわけで、真剣であればあるほど、家族の心理的な負荷も高く、悩みも深いといえますね。
さて半ば強引ですが、徳島で教育といえば、最近各所で見かける「徳島という田舎からスタンフォード大学に入学した」で注目されている、松本杏奈さんの話題に触れないわけにはいかないでしょう。
どうしても「徳島からスタンフォードへ」というのが大変なパワーワードになっていますので、そこばかり注目されがちです。子を持つ親の身とすれば、「頑張ればアンタもスタンフォードだよ」とかやってしまいそうですが、それは本質的な話ではないですよね。実際には、個性の発現のために環境をいかに整えるか?が大事なのだろうなと思いながらニュースを見ています。
私自身は、徳島で、かつ事務所から彼女が通学していた高校がわりと近いという、ただそれだけの理由で勝手にシンパシーを感じています 笑
それはともかく、そんな松本さんが「親の教育意識」について議論した討論番組に、つい先日出演されていました。
出演者はそれぞれ個性的であり、それぞれの立場から有益な意見を出されています。
結論からいえば、「親は何も言わず、価値観を押し付けず、ただ見守れ」という、洋の東西を問わず言われ続けていることが、議論の着地点になっています。
そうなんですよね。わかっちゃいるけど、いざ自分が親の立場となると、難しい…。
番組はなかなか面白かったので、ぜひご覧になってください。
さてこの番組では、個々の親が子育てに対してどうあるべきか?という点が議論されていました。つまり視点は、具体的な個々の家庭の話だったのです。
では歴史的な立ち位置で見た場合、私たちは、どのような子育てスタイルの変遷を経て現在の子育てに対する価値観に行き着いてきたのでしょうか?
国や地域や時代によって、主流となった子育ての価値観は違うのでしょうか?そして、それは変わってきたのでしょうか?またこれから変わっていくのでしょうか?
こうしたマクロの視点を持つことによって、自分の価値観がどこからきているのか確認することができます。大きな潮流に私たちは必ず影響を受けています。それを確かめることで、いま何をすべきか?とか、本当にこれでいいんだろうか?と考えるきっかけになると思います。
要するに、そんなマクロの視点に興味を持ってしまいましたので、いろいろと調べた結果を書いていこうかなと思った次第です 笑
私たちは”ヘリコプター・ペアレント”になってしまった。
私は1970年代生まれですが、当時を思い返すと、親の子育てはわりと「おおらか」であったと思います。
子供のすることに、あまり干渉することはなかったように記憶しています。父親も母親も仕事などで忙しかったかもしれませんが、どちらかというとほったらかしで、子供も近所の子供たちで集まって暗くなるまで公園で遊んでいた、というのが日常の風景だったように思います。
しかし、そうやって育った私たちが、親となってみた今はどうでしょうか?
子供のすることに、かなり口出ししているように感じます。塾や習い事に通わせる量も質も変わりました。宿題を済ませたか?を頻繁に聞き、交友関係にも口を出す。(いや、ウチの家の話ではないですよ^^;)
箸の上げ下げとまではいいませんが、色々な部分で子どもを監視するかようなスタイルになっていることに気付きます。
なんとなく、いまの親たちが全体的にそういう雰囲気になってる。
どうもこういう親を「ヘリコプター・ペアレント」と呼ぶらしいです。まさに、子供の頭上をホバリングしながら、「子どもが間違った方向にいかないように」注意深く観察しているという趣きです。
自分が子供時代の頃は、けっこう自由に遊びまわっていたはずなのに、なんでこうなるんでしょう?
どうやらこれは世界的に共通した傾向らしいです。また、その原因はどうも「不平等・格差」にあるらしいのです。
どういうことなんでしょうか?
厳しさとおおらかさは、社会経済的環境に左右される
こうした傾向を、経済学的に研究した人がいます。
私たちの親世代は、日本でいえば、高度成長期に社会人となり、いわゆる「モーレツ社員」として会社に生き、黙っていても所得は増えていた、という時代です。終身雇用制であったし、現在のように、公的年金不安などなかった時代。
この時代は、一億総中流社会といわれたように、格差はとても小さかった時代。もちろん、当時も不平等や格差はあったにせよ、他の時代と比較すればそれは小さかった。
こうした時代背景にある子育ては、現状からみて将来に対する社会経済的不安が小さいため、子供の教育に対してあまり熱心ではなくなります。
経済学的にいうと、熱心に子育てする”インセンティブがない”ということです。
なるほど確かに。当時も熱心な「教育ママ」はいたし、お受験も盛んだったけれども、まだまだ一部という印象でした。みんな横並び意識が強かった時代だし、とりあえず大学さえ出ておけば、のような感覚だったと思います。
社会が全体として、経済的に不安定でなければ、そこまで子育てに意識は向かなかったのかもしれません。
翻って現在の子育てを概観すると、将来不安と格差の拡がり(以前に比べると)を反映して、できるだけ子どもの成功を導けるように、あるいは零れ落ちないように、親がコントロールしていく「指導的」スタイルが主流となっています。
1970年代の親が子どもにまったく干渉しなかったわけでなく、いまも当時も口うるさいことに変わりはありません。しかし現代になるにつれ、より子どもに関与し、子育てにたっぷり時間を使う親が増えたということです。
それは良い面ももちろんありながら、何によってそれが”誘因”されているかというと、「高い教育を施せば、(賃金などの)高いリターンが得られる」から、ということが主な背景になっています。
日本にいると、いまひとつピンときにくいことですが、世界でみると、日本とは比較にならないくらい大きな格差がある。そこで子どもの成功を願おうとすると、どうしてもヘリコプター型の子育てになってしまう、と研究者はみているわけです。
逆にいえば、70年代ごろまでの親がなぜおおらかな子育てであったかというと、世界的にみても格差が小さかった時代だったからです。
つまり、経済的格差が小さいと子育てはおおらかになり、格差が大きくなると厳しくなる(コントロールしがちになる)ということが見出されてきたのです。
これは時代の変遷だけでなく、国や地域によっても異なってきます。
例えばみんな大好きスウェーデン。
スウェーデンといえば高福祉国家として有名ですが、それは子育てでも同様なことはご存知でしょう。育児休暇制度が充実していたり、実質無料の幼保制度など国のサポートが手厚い。その結果、ヨーロッパの中で出生率が最も高かったりします。
つまり国による所得再分配機能がうまく働いているということになりますが、裏を返せば税金が高い。ということは、無理に稼ぐ経済的インセンティブは低いことになります。その結果、経済的不平等はとても低くなっています。
格差が小さいということは…、そう、スウェーデンの子育ては「おおらか」なのです。
具体的には、いわゆる学力を重視するというよりも、自立や想像力を重視します。子どもの感情を重視し、親の価値観を押し付けることもしません。子供同士の諍いは子どもたちで解決させ、親は介入しするのを嫌がるのだそうです。
ちなみに「自立」というと、日本では自分の身の回りのお世話ができること、というニュアンスがあるのに対して、欧米では自分の感情に正直であること、その感情に責任を持つことというニュアンスがあります。自分の判断基準を確立することが「一個人としての自立」なのでしょうね。
ともかく、スウェーデンにおいては、親が子どもに何かを無理強いさせるのは、眉をひそめさせる行為なんだという事です。面白いですね。
これに対して近年のアメリカは、経済格差の大きい国として語られてきました。それを反映するように、「想像力」や「自立」よりも、「勤勉」を子育ての価値観として重視しています。自由の国のイメージが強いですが、子育てはコントロールする傾向が強いのですね。(確かにTVドラマや映画などで、それは窺い知ることができますね)
社会構造の変化にも気づく
さて、経済的格差や不平等の度合いが子育てのアプローチを変化させることはわかりました。
これ以外にも、子育てのアプローチを変化させる要因はあります。
ここまでは、この数十年について観察してきましたが、もう少し前、産業革命以前まで遡ると見えてくるものがあります。
「社会流動性」といえば、より分かりやすいかもしれません。
産業革命以前、言い換えると工業化以前の社会においては、基本的に子どもは親の仕事を継ぐものでした。職業の流動性は低く、階級も固定化されていたし、技術の革新もほとんどない時代でしたから、教育を施す理由がなかったのです。それよりも自分の仕事を手伝わせ、そこから仕事のスキルを伝授することのほうが大事だったわけです。
しかし工業化以後、それまでの支配者層である貴族から実業家が力を持つようになりました。この実業家は、ほとんど中流階級の出であって、技術革新とともに社会流動性が高まったのです。とりわけ家庭内手工業から工場へ、それから知識社会へと変遷していくなかで、子どもに高い教育を受けさせるインセンティブ、そこに時間とリソースを割くインセンティブが大きく高まりました。
ということは、社会的な流動性が高い社会では、子育てに熱心になるということを表しています。努力すればトップを狙えるとなれば、それをする理由にはなりますが、そうでなければわざわざ選択する理由がないのです。
ちなみに階級社会といえば、貴族(上流階級)、中流階級、労働者階級というふうに、おおむね3つに分かれますが、それぞれに子育ての価値観は異なっていました。
端的にいうと、
貴族は労働を否定し(不動産収入がメインだったため)、余暇活動のためのスキルを重視。
中流階級は忍耐力と、長期的な視点を持つことを重視。
労働者階級は労働を重んじ、そのための倫理と自制を強く重視する。
工業化以後、人的資本(=労働スキル)の価値が増すことによって、労働を忌避する貴族階級が没落し、中流階級が幅を利かせたのは必然だったのでしょう。
こうしてみると分かりますが、「勤勉で忍耐強く、倹約を重んじる」ような価値観とは、実際のところ中流階級の価値観でしかないのです。
もう少し対比的に貴族的価値観について具体例を出してみます。新井潤美著『パブリック・スクール』(岩波新書)によると、
…医学の進歩とともに、子供の死亡率が減少し、一つの家族の子供の数が増えるにつれて、子供全員を家で教育することは困難になってきていた。またかつては、アッパー・クラスやアッパー・ミドル・クラスの家では、息子に家庭教師や従僕をつけ、フランスやイタリアなどのヨーロッパの国に旅に出し、そこで本場の美術、音楽、文学などに触れて教養をつけさせる、「グランド・ツアー」と呼ばれる教育の習慣があったが、十九世紀になると、フランスとの戦争やヨーロッパにおける政治状況などによって、それも難しくなっていった。
その結果、アッパークラスでも、特に手がかかり、おとなしく家庭で教育を受けようとしないような息子を、学校に入れるという習慣が広まっていったのである。
『パブリック・スクール』p.15
…しかし逆に言うと、このような状態が十九世紀の半ばまで放置されていたのも、アッパー・クラスの学生にとって「教育を受けて出世する」必要がなかったからである。さらに、前にも述べたように、イギリスのアッパー・クラスが伝統的に、「知識と教養」を重要視しなかったことも一つの要因だといえる。
『パブリック・スクール』p.29
勤勉で従順が良いとされるのは、特に普遍的なことではなく、その社会の現在ある状態や、同じ社会であっても階層が違えば考え方も変わるという事実に依存しているのです。
そこを踏まえて考えるというのは、とても大事なことだなと思います。
自分の子育てに活かすには
さて、ここまでなかなか興味深かったのではないかと思います。
これまでの子育て論は、最初のほうで述べたように、個々の親と子の関わりについて見ていくものがほとんどでした。「良い子育てとは何か?」といった、ミクロの視点しか提供してこなかった。
しかし、私たちは環境に影響される存在ですから、どういう時代背景によって動かされてきたか、動機づけになったものは何なのか、とりわけ経済的インセンティブという視点でみるとどうなのか?という見方があると、自分の子育てをチェックするのに活かせるのではないかと思います。
これらの知識を持っていると、自分の子育て観は環境からきている抗えない(与えられた)価値観なのか、自分が良いと思う(理想とする)価値観なのか、要素分解できると思います。
これを前提に、パートナーと話し合いしてみるのもいいかもしれません。
どの価値観を前提に話しているか分かれば、齟齬も少なくなっていきますから。
さて、子どもの将来のことを考えたい親としては、これから先の社会がどうなっていくかが心配のひとつだと思います。
まず必要なことは、これから先10~20年後の社会がどうなっていくのか予測することですが、これは実際のところ難しい。現実的にはいくつかのシナリオを用意して、それに重み付けをして考えることでしか対処できないでしょう。
ここでは、これからも「格差・不平等は広がるか現状維持」として、親として取りうる方法を例として出してみます。
ヘリコプター・ペアレントを続ける
子どもの成功と幸せが高い教育にこそある、という信念がある場合は、この「指導的」教育方法を取り続けるべきとなります。
しかし自由な想像力や自立心も養われるべきだ、という場合、日本に住み続ける場合は難しいかもしれません。(それが育まれると謳っている幼保・学校はあるものの)
パートナー間で認識のくい違いがある場合、あらためて今回記事のような時代背景とともに理解する必要があるかもしれません。
環境を変える
自由な想像力や自立心を重視する場合、もしかすると住む国ごと変えたほうが話は早いかもしれません。先に例を挙げたスウェーデンなどの北欧諸国など。
単純にアメリカであればよい、というのでもなく、その社会経済的環境をしっかり調べたうえで臨むことは重要になります。自由だと思ったら意外とそうでもなかった、もあり得ます。
ただ、心理的・経済的・法的ハードルは上がりますので、熱意が必要ですね。
こんな感じでザクっと出してみましたが、これ以外にもいろいろと議論できるだろうと思います。
ファイナンシャル・プランナーとプランニングを打ち合わせていく上では、なかなかここまで踏み込むことはありませんが、いろいろな視点を持って議論していくと、現状を追認するだけのプランニングから一歩抜け出せることができるのではないかと思います。
そんなことで、今回はここまでです。
こうしたご相談もお待ちしています。お気軽にどうぞ。