こんにちは、ファイナンシャル・プランナーの吉田です。
最近、30年ぶりに漫画『スラムダンク』を読み返しています。
私が高校~大学にかけての漫画ですから、世代ど真ん中といって良いでしょう。当時はNBAブーム到来期で、そしてこのスラムダンクの影響もあり、高校の頃も昼休み時間中バスケットばかりしていました。(バスケ部ではないですが)
そんなスラムダンクですが、現在「新装再編版」なるものが出ているのですね。各巻区切りの良いところまでの収録となっており、また表紙カバーは井上雄彦先生の新たな書下ろしとなっている。
今更ながら私はこの存在を知って、当時は買わなかった単行本を、あらためて買い揃えています。
そんなわけで、今回はちょっと趣向を変えた話をしてみようかなあと。良かったらお付き合いください。
夢中になれる何かがある
さて、井上先生の美しいカバーイラスト。その中でも私がお気に入りなのがこの第10巻の表紙です。
主人公・桜木花道が公園のバスケットゴールに向かって、ひとり黙々と練習をしている姿。
少し俯瞰した距離感から彼を捉えたこの構図は、自然と私の心をつかみました。
表紙イラストは各巻の内容を反映したものとなっており、この10巻も例外ではありません。
バスケット初心者である桜木花道は、その類まれな身体能力を活かし、入部数ヶ月でバスケ部になくてはならない存在にまでなります。しかしまだ素人であることから、如何せんシュートは下手なまま。数日後には大事な予選の試合があります。そこで主将と共に朝~夕、数百本のシュート練習を行うことになります。
表紙は試合当日の朝も、ひとりシュート練習する主人公の姿なのです。
この姿を第三者的にみて、どのような感想を持つでしょうか?
「素人ながら上手くなろうとよく頑張っている」
「チームに迷惑かけまいと頑張る姿にジーンとする」
など色々あると思います。
実はこの一連の流れには、こんな描写があります。
あと数日しかない重要な試合に向け、少しでも桜木のシュート力を上げるため猛特訓する主将・赤木。とはいえ練習後の300本のシュート練習は、体力のある桜木花道でも相当こたえます。しかし、あの暴れん坊の桜木が文句のひとつも言わず練習に励むその姿に、赤木も少し訝しります。
実は、
初心者としてバスケ部に入部して以来、ドリブル・パス・リバウンドなどの地道な基礎練習を続けてきた桜木
その彼にとって
シュートの練習は楽しかった
そう、いつもは文句ばかり言う桜木花道が黙々と練習に励んでいたのは、「シュート練習が楽しかった」からなのです。
もちろん次の試合でチームが敗れれば、3年生は引退になってしまう。前の試合でパスミスを犯し、試合を終わらせてしまった花道は、その責任感があったかもしれない。素人ながらもスタメンであることから、やらなければと思う使命感もあったかもしれない。
でもそれよりも何よりも「シュート練習が楽しかった」姿が、あのカバーイラストには描かれているのです。
その姿を没頭活動といわずに何と言いましょう。
目の前の、今この瞬間に没頭する姿。
それは誰にとっても美しいと感じさせる姿です。
私も時々思うのですが、自分の子供が何かに没頭しているとき、その姿を見ると幸せな気持ちになります。そんなことってありますよね。
没頭の最中は”フロー状態”に入っているので、無駄な思考や感情は存在せず、その時を後で思い返すと深い満足感を覚えるとされています。自分自身に当てはめても、確かにそうだと言えます。
つまり没頭はイコール「幸せ」に結びつく行為であるといえる。
ポジティブ心理学という学問の祖であるセリグマン教授は、持続的幸福のための要件として、この「没頭活動(engagement)」を一つの要素として挙げています。
「持続的」幸福というくらいですから、その時々の気分に左右されない、深い充足感が持続し続けることが人生における幸福なんだ、というわけです。
スラムダンクのこのシーンは、大人になると忘れがちになるかもしれないこの「没頭」について思い出させてくれる名シーンなのだと思います。
その選択は人を幸せにするか?
一方、現在ドラマ放送されていて、たぶん話題になっている『二月の勝者』
中学受験が舞台になっていて、塾講師と子ども・親を軸に、家族問題や教育問題に切り込んでいるらしいですね。
ちょっとドラマを覗いてみたところ、小学生の子供を持つ親として続きが気になってしまいました(笑
徳島は都会と比べれば中学受験の様子はまた違うんでしょうが、とはいっても親御さんは大変だと思います。
なぜ中学受験がこうも激しいかといえば、以前に記事にしたような格差の問題を、親が感じ取っているからでしょう。
教育は、世界的には大変重要であるとの共通認識があります。世界でみると、字が読めない・計算ができないといった人々が、絶対的貧困に置かれる構造的な問題の、その一因になっているという認識がある。こうした場合には教育の持つ重要性が説かれるのはとてもよくわかります。
一方、日本における教育の概念はどうでしょう。
日本においては「受験勉強」「良い大学を出ること」が教育だとされている節があります。そしてそれが目的化(ゴール)されており、親は子どもが幼児の頃から、それに向けて最適化しようと勤しんでいるように見えます。
こうした教育問題は私が子どもの頃から言われていたことでありますが、現代はよりひどくなっている。その理由は上記記事にも書いてありますが、私なりに違う解釈でいえば、一度ついた慣性は、そう簡単には止まることができないからだろうなと思います。
人間の脳みそは最適化が得意なので、何かが瓦解するまで(つまり行き着くところまで行くまでは)こうした最適化はやめないでしょうね。
さて、そんなことより『二月の勝者』で気になったのはこんなフレーズです。
受験塾は「子供の将来」を売る場所です。
原作の全てを読んでいないので、どういう意味で使われているのかわかりませんが、私が解釈するには、
「子供の将来をバラ色にしたければ、今のうちから手を打ったほうがいいですよ。そしてその解決策は受験塾にありますよ」
という類いの、よくあるセールストークに聞こえます。
「子どもの将来」という、凄く漠然とした話なんですが、子を持つ親としては反射的に反応してしまうワードだと思います。
ところで話は変わりますが、幼少期の育て方というのは色々な説があって、その中のひとつに「子どもの頃はなるべく外遊びをさせて五感を鍛えたほうが良い」というのがありますね。
外でしっかり遊んで身体を使い、触覚や嗅覚などの感覚器を総動員して脳に刺激を与える。それが脳自体の発達にも繋がるんだという立場です。脳という器を大きくするようなイメージですね。
大きくなった器であれば、後から勉強などの所謂ソフトウェアのインストールも楽々ですが、十分発達していない時期にソフトをインストールしようとしても、それを活かすだけのハードパワーがないという事態が起こってしまう。
ただでさえ椅子に長時間座ることは身体にとってよくありませんが、そのうえ脳という器を発達させたい段階で、それをさせない選択をしてしまっていたら、一体何をしているのかわかりません。
このような立場を取るのなら、中学受験に勤しむ親は”毒親”以外の何者でもない。
ところが他方では違う見方を支えるデータもあります。
厚生労働省が発表している「令和2年賃金構造基本統計調査」によると、男性で50代後半の月額賃金は、大学院卒で71万円、大卒で52万円、高卒で35万円となっている。
こうしたデータを目の当たりにすると、やはり学歴は重要なんだ!となってしまう。子どもの幸せを願うなら、親が頑張らないでどうする?という立場。
どちらにも言い分があって、どちらが正しいわけじゃない。「どっちも正しい」もたぶん無い。あるのは選択と、選択の結果、得られるであろうものと失われるであろうもの。
あなたならどういう立場を取るでしょうか?
幸せの定義をしてみよう
いずれにしても昔から言われていることは、
「親はいらんことするな」
でしょう。
良かれと思って子どもにすることは、だいたい良くない。後から振り返ってみれば概ねこの意見に収斂するはず。にもかかわらず、なかなかこうはいかないんですね。
となると私たち親が出来ることは、さっきのようなどちらかの立場を取ること(その他の立場を取るにしても)を越えて、子供の将来、子どもの幸せとは何か?ということを定義付けることではないでしょうか。
すると、そもそも人間の幸せとは何か?という問いに立ち入らなければなりません。
そこで冒頭のスラムダンクのワンシーンを思い出します。第三者が見て美しいと思うその状態、すなわち幸せを構成する要素のひとつ、「没頭活動」です。
何かに没頭するものがあって、それが一日の中を彩っていると、それは持続的幸福に繋がる。持続的幸福は人生の充足感をもたらす。人生の究極の目的が幸福であることだとするなら、どのような選択肢を選ぶかを超えて、没頭できる人は幸福であるはずです。
だから子どもがどのような道に進むにしても、日々の中に没頭はあるか?というのを注意深く見守ってあげること。恐らく親が出来ることは、こういうことしかないんだろうなと思います。
お金や社会的地位や効率やコスパを求めて没頭活動と程遠いことをやらせているとしたら、それこそは毒親と言われてもしようがないでしょう。
特に最近では効率やコスパがとても持て囃されていますが、それが無個性化に繋がることをどれくらいの人が認識しているのでしょうか。最短距離で目的地に着くことが良しとされているけれど、寄り道をしない旅路のどこが面白いのでしょう。それは他人と同じ旅でしかない。寄り道や迷い道をした先の経験こそが、その人のユニークネスになるのに。
さて、スラムダンク新装再編版第10巻は、子ども達も何度も読み返しているようです。たぶん、何か感じるところがあるのでしょうね。
どうしてスラムダンクが国民的マンガとして愛されるようになったのか、私は今までよく分からなかったのです。そりゃ、絵がきれいとか名言の宝庫とかあるけれども、とは言っても人物の掘り下げはわりと薄いし、ライバルキャラの描き方も中途半端だし、ほとんどはバスケの試合ばかりです。どうしてこんなにも多くの人に支持されるのか分からなかった。
でも今は分かる。
そこには「没頭活動」が描かれていたから。言葉や思考といった余分な装飾が削ぎ落された”没入する姿”が描写されていたから。
私たちはそういう姿に、えもいわれぬ美しさ、共感、そして幸福を見ていたのかもしれません。
いや、きっとそう 笑
親である私たちも、何かに没頭している姿を見せられているかな?と思います。やはり背中で見せないとね。
では、今回はこんなところです。