こんにちは、ファイナンシャル・プランナーの吉田です。
海外旅行経験者なら、みんな感覚的にわかっていること。
それは何でしょう。
そう、それは
「為替レート」
円からドル、円からユーロ、いろいろありますが、他通貨と交換するときに、「ああ今は円って弱いんだな(あるいは強いんだな)」なんてことに思いを巡らせたりします。
もうひとつ。
海外に行くと「ランチ高いな~(あるいは安いな~)」などと思ったりします。要するに物価ですね。
現在は日本の物価の安さがトピックとして取り上げられることが多くなりましたが、海外に出ることで為替レートとともに物価の違いについても意識させられますね。
しかし、しかしですよ。
為替レートや物価の違いは意識させられるとしても、日本円から他通貨へ、こっちで通用するお金から、あっちで通用するお金に交換して使えるというシステム、言い換えると「お金」という概念自体に変化はないということには、私たちはあまり意識を向けていないですよね。たぶん。
日本で作られたお札や硬貨を、向こうで作られた紙幣や硬貨に交換する。素材や物質的な何かは変わったとしても、「お金」という概念は共通しているから、お店でニッコリと笑顔をたたえて受け取ってくれる。
でも、もしこの概念が通用しないとしたら、どうしますか?少なくとも、ある場所では日本円が通用しないことが分かったら?
ある旅行記を読んだときに、それに関するあまりのリアルさから、震えるような衝撃を受けたことがあります。頭では分かっているはずのこと。それなのに背筋が薄ら寒くなるような、そんな感覚を覚えました。
その旅行記とはこちら。
著者の岡田悠さんは無類の旅行好きですが、このウズベキスタンの旅ではいつもの貧乏旅行ではなく、現金をしこたま持ち込んだらしいのです。現地の両替所で円を交換し、たまにはパーっと使う算段だったらしい。
ところが銀行でもホテルでも両替ができない。円を受け取ってくれないのです。旅行ガイドブックで得た事前情報と話が違う。空港では両替所が閉まっており、頼みのATMはドル紙幣不足で引き出せず。
突如として、持ち込んだ日本円は無用の長物と化し、わずか70ドルの所持金のみが生命線となってしまいました。
大切に抱えてきた福沢諭吉は、ここでは無名の人だった。人が価値を信じなければ、紙幣はただのおしゃれな紙でしかない。資本主義の本質に触れた気がした…
ウズベキスタンの10日間を7500円で過ごしたあの日のこと-岡田悠
お金は、みんながそれを価値があると思っているから通用する。
“Japanese Yen? No No. $US only.”
ウズベキスタンの10日間を7500円で過ごしたあの日のこと-岡田悠
人が価値を認めなければ、日本銀行券も、おもちゃ銀行券も、はっきり言って一緒。
突然そんな世界に放り込まれたらどうでしょうか?
この旅行記は分かりやすくそれを疑似体験させてくれています。
ちなみにこの話は為替の問題なので、日本円はいらない、というだけの話です。ですからウズベキスタンでもお金は必要です。少なくともドルじゃないとダメよ、という話。
ところが、もしお金という表現手段そのものが変質してしまう場合は、どうでしょうか?
お金なんかいらない、という世界観。
「お金?かつてはそんなものあったね。あれはひどい概念装置だったから、みんな破棄しちゃったね。お金について知りたかったら博物館に行くといいよ。で、キミは何ができるの?」
資本主義の生命線としてお金がある。それを潤滑油とか血液とか、いろいろ言いかえは可能ですが、何にしても「お金には価値がある」と皆が信じているからお金は成立しているわけです。それは皆分かっている(はず)
でもFPという仕事柄、どうしてもお金そのものにフォーカスしがちになります。
どうやったら支出を減らすことができるか、どうしたらもっとお金に働いてもらうことができるか、どのようにすればもっと節税できるか、どうすればもっと残すことができるか…
たぶん本当は、そこは本質的な部分じゃないのです。
それを価値があるものとして取り扱っているのは人間そのものです。価値があるものでよいのであれば、お金である必要はない。紙幣や硬貨である必要はなく、芋やネギでもいいわけです。いや実際に貝殻やお米がお金だった時代もある。デジタル数字の羅列である必要もないのです。
あくまでも、価値を生み出している源泉は何なのか?ということを考えます。そして、それは人間の表現行為なのだ、ということに思い至ります。
と考えると、
中心に人間があって、その周囲に人間が生み出すものが浮遊している。お金もその浮遊しているものの中のひとつだと考えることができる。
すると、お金との距離感が少し取れて、見るべき部分が見えてくると感じます。
この手の話って、当たり前といえば当たり前ですよね?
でも、ああやって岡田さんの記事が本になったりコラムになったりしているところをみると、やっぱり多くの人が「お金そのものに価値がある」という共同幻想のなかで日常生活を生きていて、疑っていないことも確かなのですね。(で、たまにハッと我に返る時がある)
「お金さえあれば、幸せになれる」と。
最後にもう一節、岡田さんの文章を取り上げてみましょう。
「Exchange is good. 僕たちは価値の交換を通じて関係を紡ぎ、生きていくのだ。」
ウズベキスタンの10日間を7500円で過ごしたあの日のこと-岡田悠
経済学的に言わずとも、私たちは価値の交換を通じて発展してきました。そしてより大事なのは価値の交換を通じて「関係性」を紡いできたこと。
「私は人よりも家を建てるのが得意だ」
「私は料理をするのが好き」
こうして家を建ててもらっている間に料理を仕込み、腹が減ったらそれを食べる。美味い料理に舌鼓を打ち、それが再び家を建てるための活力になる。暖かく快適な家はさらに料理を極めるための礎となる。
金銭的な交換を伴わずとも価値の交換を通じて関係性は紡がれます。プライスレス。
そして価値は決してお役立ちだけで表されるものでもありません。
「アンタの笑顔をみるだけで元気になれる」
スマイルゼロ円。でもそこにも価値の交換を通じた関係性が紡がれています。もはや存在自体が価値。生きてるだけで丸儲けの発想ですね^^
思い返すと、このFPの仕事で、これまでご相談に来ていただいた方の存在そのものが、私にとっては価値ある交換をさせていただいた、かけがえのない関係性そのものなのです。事業者として与える側であるつもりでも、実はたくさんのものを与えられていることに気が付きます。金銭的なことじゃなくて。
ということで、お金とは何なのか、価値の源泉ってどこから来ているのか、なんてことを考えてみました。
お金は交換を媒介するものとしてとても良く出来ていますが、いま一度、それを生み出す「人間」といいうものに焦点を当ててみてはいかがだろうか?という話でした。
ご相談の際も、この人はこんなこと考えてるんやな…と、頭の片隅にでも置いていてくださると幸いです 笑